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『友達』(ともだち)は、安部公房の戯曲。2幕13場から成る。安部の代表的戯曲で、傑作とも評されている〔三島由紀夫「安部公房『友達』について」(青年座プログラム 1967年3月)〕〔中野孝次「解説」(文庫版『友達・棒になった男』)(新潮文庫、1987年)〕。一人暮らしの男のアパートに突然と闖入してきた奇妙な一家が笑顔で隣人愛を唱え、親切心の連帯で孤独の思想を駆逐し殺してしまう物語〔。男の部屋を侵略する一家の疑いを知らぬ善意が、怪物化してゆくブラックユーモアの中に、現代社会の人間の生の構造や他者との関係性が描かれている〔〔。 1967年(昭和42年)、雑誌『文藝』3月号に掲載され、同年3月15日に青年座により紀伊國屋ホールで初演された。同年9月18日に第3回(1967年)谷崎潤一郎賞を受賞。単行本は同年11月30日に河出書房新社より『戯曲 友達・榎本武揚』として刊行された。翻訳版はドナルド・キーン訳(英題:Friends)で行われ、国内外で多数上演され続けている。1988年(昭和63年)に日本・スウェーデン合作で映画化もされた。 == 作品成立・主題 == 『友達』は、1951年(昭和26年)に発表された小説『闖入者』を元にした戯曲であるが、テーマやプロットは『闖入者』とは違っている〔安部公房「『友達』について」(文藝 1967年3月号に掲載)〕。なお、1974年(昭和49年)の改訂版『友達』では、登場人物の一家の「祖母」が「祖父」に変更され、「元週刊誌のトップ屋」がなくなり、「婚約者の兄」と「三男」が加わった。また、初出版では、タイトル横に「黒い喜劇」と銘打たれている〔『安部公房全集 20 1966.01‐1967.04』(新潮社、1999年)〕。 安部公房は、『友達』と『闖入者』の異なる点については、『闖入者』の「闖入者」たちは多数原理(民主主義)を暴力の合理化に利用し、主人公はその多数神話に毒されている故にそれに逆らえず自己矛盾の罠におちいるという「受身の犠牲者」にとどまるが、『友達』の「友達」たちは、主人公の忠実すぎる従僕の役割を引受け、その協調と連帯と和解の原理により、主人公は常に「外面的には優位を保つ」ことが出来るとしながら、以下のように、その関係構造を解説している〔安部公房「友達――『闖入者』より」(青年座への原稿、1967年2月)〕。 『友達』のテーマについては、「他人とはなにか、連帯とはなにか」だと安部は述べ、共同体原理が全く無効になっている現代における人間の連帯について以下のように説明している〔安部公房「談話記事 戯曲三本がことしの舞台へ」(東京新聞、1967年3月13日に掲載)〕。 また、『友達』の長女は「肉体的な愛」、次女は「精神的な愛」を、「主人公に求め、また与えたいと望む」と説明し、「主人公の立場は、彼女たちの好意と善意を利用しようとすることによって、いっそう複雑なものになる」としている〔。そして、「次女は、脱出を助けるふりをしただけではなく、本当に助けてくれたのかもしれない。死以外に、もはや真の脱出の道が無かったのだとすれば……」と安部は解説している〔。 なお、観客の反応については、おそらくこの芝居を観てよく笑うだろうと安部は予想しながら、「しかしこの笑いが舞台に対しての笑いではなく、実は自分を笑っていると感じていただければ、芝居は成功だと思う。皆さん、よく笑って下さい」と述べている〔安部公房(成瀬昌彦との対談)「『友達』――作家と演出家の対談」(労演・第133号 1967年3月10日)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「友達 (戯曲)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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